モノローグ #2

モノローグ #2 MONOLOGUE

ベースの tacama です。
また「ひとりごと」を書きます。

ぼくは本を読むのが好きです。
映画より「本派」です。
つまり、インドアな性格です。

本を読みはじめたのは高校生くらいからでした。
それまでもいくつかは読んでいたのでしょうが、誰がその本を書いたのかを意識しはじめたのは、この頃からです。
作者を気にするようになり、おなじ作家の本を読んだりするようになりました。

最初にはまったのは「中島らも」という作家でした。
作品は全体的に退廃的な印象で、影響をうけて、ぼくもこのころ退廃的になっていました。

進学校に行っていたのに「大学行かない」とか言いだしたり、結局は大学に行ったのですが、ちょっとめんどくさい人間になりました。

「中島らも」に関係する人物として「わかぎえふ」というひとがいます。
先日観た「最高の人生の見つけ方」という映画のエンドロールに彼女の名前をみつけて、高校生の頃を思い出しました。
「最高の人生の見つけ方」は邦画の方です。
あとそう、本派だけど、一応たまには映画も観ます。

高校生のときは中島らも、もう少し経つと森博嗣などを読んできましたが、いま好きな作家は? と訊かれたら「小川洋子」とこたえると思います。
おとなになって気づきましたが、ぼくはきっと純文学というジャンルが好きです。

本のいいところって、自分のペースで読み進められるところですよね。
映画だとこうは行かないです。
向こうに引っぱられていってしまいます。
ぼくは進むたびに一回とまって、ひたったり、考えたりする時間がほしいんです。

本ってあたまの中に、いろいろとイメージしながら読んでいきますが、よくかんがえれば、これって子どものころの「ひとり遊び」となんだか似ている気がしませんか。
いま思いついたことなのですが、「なんだ、子どものころとやっていることは一緒か」って、ちょっと残念な気持ちになりました。

このことは、小説や物語りだけに当てはまるのかもしれません。
フィクションとノンフィクションは、やっぱりちょっと違いますね。

ところで、ぼくはノンフィクションも、もちろん読んでいます。
いま読んでいるのも歴史の本です。
知識を得て自分をアップグレードするのも楽しいですね。

あと、なんで本を読むひとと、読まないひとがいるのかも、普段から興味深いなと思っています。
読まないひとはホントに読まないですものね。
いい悪いのはなしでなくて、なんでおなじ人間なのに分かれるんだろうって。

世間では本をたくさん読むひとの方がよしとされているとい思いますが、ぼくにはちょっと疑問です。

本ばっかり読んでるひとって、ぼくのようにインドアで内気な人間が多いイメージがありませんか。
逆に、本を読まないひとの方がアクティブなイメージがあります。
ぼくはやっぱり、アクティブなひとにあこがれますね。
ないものねだりでしょうか。

しかし、これは多様性のはなしなのかもしれません。
両方いるから、おもしろいっていう。

はなしは飛びますが、ぼくは本えらびのこだわりとして、、装丁とタイトルを大事にしています。
小説の場合とくに。

装丁(そうてい)は本の表紙のことです。
絵やイラストがキレイですよね。

ただ残念ながら、最近は Kindle Paperwhiteで読むようになったので、装丁の楽しみがなくなりました。
白黒の世界なんです。

紙の本を読んでいたときには、わざとカバーをせずに、もしくはおもて側だけ、カバーをいつでも外せる状態にしていました。
それで装丁をいちいち楽しみながら読んでいました。
本を手にとるたびに装丁を見る、みたいにして。

本屋さんでは、装丁がかっこいいだけで、つい本をとってしまいます。
中身もきっといいに違いないって。

タイトルについては、あるとき「おもしろい小説には、センスのいい "オツな" タイトルがついている」と気づいたのです。
それ以来、タイトルをしっかり見て、えらぶようになりました。
タイトルが納得いかないと、それだけでスルーしたりもします。
まあでもこれについては、きっとぼくの好みなだけなのでしょうね。

実は今朝、おもいがけず早く起きてしまって、せっかくなので、静かな朝を読書で過ごしました。

この文章のさいごに、そのときに印象にのこった部分を引用して終わろうと思います。

「ホモ・デウス」という本の一節です。

家の庭に芝生を敷く文化は、実は中世の王侯貴族の、自身の豊かさを誇示する慣例、いわば「自慢」からきている歴史を受けて、つづく文章です。

芝生についてのこの小史を読んだあなたは、これから夢の家の建築を計画するとなったら、前庭に芝生を植えるかどうか、考え直してもいいかもしれない。
もちろん、植えるかどうかは依然としてあなたの自由だ。

だが、ヨーロッパの君主や資本主義の大立者やシンプソン一家から引き継いだ文化の重荷を振り落とし、日本の石庭や、何か斬新なものを考えたりするのもまたあなたの自由だ。

歴史を学ぶ最高の理由がここにある。
すなわち、未来を予測するのではなく、過去から自らを解放し、他のさまざまな運命を想像するためだ。

もちろん、それは全面的な自由ではない。
私たちは過去に縛られることは避けられないが、少しでも自由があるほうが、まったく自由がないよりも優る。

ホモ・デウス 上下合本版 テクノロジーとサピエンスの未来

さらにいえば、自分の過去からも開放できるようになると、もっといいなと思いました。

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